園長のことば (2017.4月)

 

 

 

 

園長のことば よい保育をしましょう

 

 春がやってまいりました。入園・進級おめでとうございます。平成29(2017)年度を迎えられることをうれしく思います。一昨年度は、アメリカの発達心理学者メアリー・エインスワースの言葉「心の安全基地」をテーマに掲げていました。昨年度は、「言葉をそえる、心をかよわせる」をテーマに保育に取り組んでまいりました。

 

 今年度は、メインテーマとして「よい保育をしましょう」、サブテーマとして「「技の保育」から、小学校以降の「主体的な深い学びへ繋がる保育へ」」を掲げます。

 

 

 

 良い保育をするためには、保育を謙虚に学び続けることが必要です。うれしいことに先生方が自ら課題を持ち、一歩一歩着実に学びを深めていっています。保育のことはよくわかっている、今さら勉強なんて馬鹿々々しいといった傲慢さを感じることはなくなりました。年6回実施する望月先生を迎えての研修会は、先生方にとって自分の保育を厳しく講評されるわけですから、負担に感じられるはずです。それをたのしみにできるということは、保育者として本物の実力がつきつつあるというだけでなく、よりよい保育を目指そうという気持ちがあるからだろうと思っています。

 

 

 

 さて、「よい保育」とは、どのような保育のことをいうのですか?と疑問をもたれるでしょう。いろいろな答え方があります。

 

 保育者には3種類あります。1番目は、子どもが自ら伸びようとする芽を伸ばすことのできる先生。2番目は、子どもにとって毒にも薬にもならない先生。3番目は、子どもの伸びようとする芽を摘んでしまう先生です。ほとんどが、毒にも薬にもならない先生だそうです。不運にも3番目の先生にあたると子どもは伸びません。自ら伸びようとする芽を摘んでしまうからです。幸運にも1番目の先生にあたると、子どもは変わります。ただ、1番目の先生はどこにでもいるわけではないようです。本園のクラス担任は、1番目と1.2番目の境界にいると思っています。

 

 「よい保育」とは、①安心できる保育者と安全な環境のなかで幸せに充実した時間が過ごせるということ。そして、②子どもの自ら伸びようとする芽を伸ばすことができているという答え方をしたいと思います。

 

 

 

 では「よい保育」と「ふつうの保育」のなかで見られる子どもの姿には違いはあるのですか?と問われたならば、違っていますと答えます。一見すると同じように幸せそうにたのしく過ごしているように見えても、

 

 よい保育での子どもの姿には、

 

  ・より広く深く観察しようとする姿

 

  ・より広く深く疑問をもつ姿

 

  ・より広く深く知ろうとする姿

 

  ・より深く考えている姿

 

・自分達で調べて答えを出そうとする姿

 

  ・つねに試行錯誤、創意工夫している姿

 

・没頭して取り組む姿

 

  ・興味関心が何日何週間にもわたって持続発展している姿

 

  ・お友達と協力して物事をすすめていこうとする姿

 

等をより頻繁に見ることができます。担任の指示通りやらされている姿や教えられた通りにやっている姿からは、上記の姿を見ることはあまりありません。

 

 

 

 次に、「優れた保育者」と「ふつうの保育者」の保育は、どの部分がどのように違うのかということについてです。細かく言えばきりがないのですが、優れた保育者は、子どもひとりひとりの言動をよく見ています。「子どもの表情、姿勢、しぐさだとか一挙手一投足は、すべてその子の表現である。ゆめゆめおろそかに扱ってはならない」(小砂丘忠義)、よく見ているだけでなく、その言動の意味も常に読み解こうとしています。その上に発達の見通しを重ねて、保育の環境構成や教材準備をしています。そして保育中も常に子どもの様子をみながら、保育を再構成(軌道修正)しています。

 

昨年度年長組の保育がよい例です。ひとつのテーマ(七夕)が展開発展しながら四か月近く続きました。園児は自分達で相談し、調べ、考え、創作をするというサイクルを繰り返し、最後はあの大きなロケットをつくり宇宙服を着て宇宙を探検しながら遭難している人を救助したというところで、満足したらしく一応の終わりを迎えました。その間、宇宙食のことを相談していたり、トイレのことを調べてみたり(宇宙飛行士はオムツをつけているのだそうです)、望遠鏡の仕組みを考えていたり、宇宙では体がフワフワ浮くのだといって、不思議な歩き方はしていたり、五十音順図、アルファベット表を見ながら文字を書こうとしていたり多くの学びの姿が見られました。やらされてやっているのではないので、退屈している姿も見られませんでした。

 

 それに対して「ふつうの保育者」は、そこまで子どもの言動の読み取りが深くありません。保育の環境構成や教材準備も保育月刊誌などから、これが良さそう楽しそうというようなものを準備しています。そこが違っています。すること・させることに一生懸命で、その間子どもの発する興味・関心・好奇心といった信号をうまく受け取ることができていません。ですから楽しくはあるけれどもそれを次へと発展させられず、日替わりメニューのような保育を続けるということになります。これを別名「技の保育」とも呼びます。

 

 

 

「よい保育」と「ふつうの保育」での子どもの姿の差、「優れた保育者」と「ふつうの保育者」の差は、実は、本園の5年前と現在の姿の差でもあります。この4年間、保育者が学ぶと保育が変わる。保育が変わると子どもの姿が変わってくることを目の当たりにしてきました。だれでもこの変化を見せつけられると、保育者の責任というものを感じることでしょう。

 

 

 

「よい保育」というと、「上手に○○させる」「できる」「できるようになった」といった文脈で語られることが多く、上記の子どもの姿というのは案外、見落とされているのかなと思っています。上記の子どもの姿こそが「主体的な深い学び」へ発展する大事な姿なのですが。

 

 

 

望月先生には、今年度も引き続きご指導いただきます。5年目になります。ひとつ学べばひとつ疑問がでてくるような状況ですが、吸収できるものはすべて吸収し、園児ひとりひとりがより幸せに充実した時間が過ごせるように、そして自ら伸びようとしている芽をより伸ばすことができるように職員一同努力を重ねたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

園長のことば (2017.5月)

 昨日(26日)の晩、NHKで「認知症 ともに新しい時代へ「驚きの介護術でみんなハッピー!」」という番組が放映されていました。本を読みながら番組を見た(聞いた)ので、間違いがあるかもしれませんが、内容は、認知症も周囲が接し方を変えるだけで劇的に症状が改善することが分かってきたというものでした。

 フランス発の介護技術「ヒュマニチュード?(human attitude?)(人間性の尊重?)」というものが紹介されていました。介護現場で非常に効果を上げているということでしたが、基本は「見る」「触れる」「話す」「立つことを援助する」の4つです。保育教諭であれば、「見つめる」「触れる」「言葉を添える」というのは珍しくもなんともない、日々の保育のなかで普通にやっていることなので少々驚きました。

 番組のなかで「情緒の安定」という言葉は出てきませんでしたが、介護される側の「情緒の安定」というものがいかに大事か、そして「情緒の安定」のために「見つめられる」「触れられる」」「話しかけられる」ということが重要なのだということがよくわかりました。子どももお年寄りも基本は同じなのですね。

 もしかしたら保育に通じるところがあるかもしれない、保育の参考になることがあるかもしれないと思って見たわけですが、参考になったことがあります。それは、技術ということです。「丁寧に」とか「心をこめて」介護しようではなく、介護者の行動をより具体的に定めてあることです。これを技術というのだなと思いました。

 子どもの言動をよく見なさい、その言動の意味と背景を察しなさい、と先生たちによく言うのですが、もっと具体的に言動をよく見るとはどういうことなのかを言葉で分析的に伝えられるようにならなければいけないのだということがわかりました。

 

園長のことば (2017.6月)

 日々、書類づくりに追われています。次々と市役所の各担当者からメールが届き、その処理に追われ、園児一人ひとりの遊ぶ様子をじっくりと見ることができません。5月に届いた市役所メールを数えてみたのですが49通ありました。社会保険関係や税金関係は封書で届きますから、正直なところ息をつく暇もないという感じがしています。

 行政へ提出する書類のほとんどが、不正をしていないということを証明するためのものです。それも書式が変わるだけで同内容のものを複数回提出することを求められるのですから、何とかならないものだろうかと思っています。児童部庶務課も事務書類の簡略化をすると言ってくれてはいるのですが、児童部庶務課自体が日々の業務に忙殺されて、事務処理の見直しをする時間があるのだろうかと疑っています。

 日経新聞に、「行政手続きが競争力を奪う、書類の山に溺れる企業。・・・役所書類の二度手間、三度手間。企業の仕事の足手まといになっているのが、煩雑な行政手続きだ・・・」という記事がありましたので、行政の二度手間、三度手間は、日本全体の問題のようです。

 保育の質の向上、保育教諭の専門性の向上が求められているわけですが、二度手間、三度手間の事務処理を簡略化してもらえれば、その時間を専門性の向上のために使えます。でも簡略化されて時間ができたら、ぼーっと過ごしてしまうかもしれません。

 

園長のことば (2017.7月)

 親、保育者、教師は、自分を基準にして、自分にとって都合のよい指示通りに動いてくれる聞き分けのよい子をついつい求めてしまいます。

 親であれば、子どもに対する愛情、願い、期待がありますから、その思いが強ければ強いほど、期待どおりにならない、思い通りにならないという悩みをかかえてしまいます。こんなことじゃ、大人になった時に困るでしょう。頑張ってねとわが子を叱咤激励してしまいます。子どものそのままを受け入れるということは、簡単にできそうですが、簡単にできることではありません。

 親が、自分と全く関わりのない他所の子どものことで悩んでいるという相談を受けたことは一度もありません。わが子への思いがあるからこそ悩むわけです。

 保育者、教師も私の園・学校の子どもだから、私のクラスの子どもだから責任を感じ一所懸命に保育・教育するわけですが、目は吊り上がり、声は枯れてしまっているという光景を見かけることがあります。これも、自分が受け持っている子どもをよくしなければならないという責任感があるためです。

 親の悩み、保育者・教師の悩みに共通するのは、子どもが自分の思い通りにならないということです。

 このことを子どもの立場から考えてみますと、「親の期待に応える」「聞き分けのよい子」でいるというのもずいぶんと窮屈なのではないでしょうか。「聞き分けがよい」というのは、「がまんしている」「耐えている」と同意の部分がかなりありますから、子どもが思い通りにならないと思うときは、子どものがまんのコップが満杯になってしまっていてあふれ出しているのかもしれないという振り返りが必要ですね。

 学童さんが、「園長先生、俺の得意技知ってる?教えてあげようか。あのね、かあちゃんが勉強しろ、宿題しろっていうのを聞こえない振りして、無視するのが俺の得意技」とすました顔で教えてくれました。

 

園長のことば (2017.8月)

 何事でもやらされてやっている時は、時間が長く感じられますし、はやく終わらないかなと違うことを考えたりするのではないでしょうか。自分の好きなことをやっている時、時間はあっという間に過ぎてしまいます。もう少しやりたいとか、明日も続きをしたいと思うことでしょう。

 これを「勉強」と「遊び」で考えてみれば、よく実感できます。「勉強」には「つとめ強いる」という意味があります。つとめ強いられている間は楽しい時間ではなく耐える時間です。

 小中学生になれば、勉強をしたくない、面倒くさいと思っても、「やらなければならない」という使命感や責任感から頑張る気持ちも育ってきますが、幼児の場合、「やらなければならないからやる」という姿を見ることはほとんどありません。「したいからしている」か「やらされてやっている」かのどちらかです。

 幼児教育・保育が、遊びを大切にする、遊びを通して学ぶことを大切にするというのは、夢中になるような遊び、心動かされる体験の機会が多ければ多いほど、それが明日への活力となる、そういう日々の積み重ねが伸びようとする芽(意欲・内発性・自発性)を伸ばすことにつながると考えるからです。意欲・内発性・自発性が育っているからこそ、目標を持つことができ、目標に向かって頑張ること、耐えることもできるのです。

 引き籠りや、無気力で指示待ちの若者というのは、幼少期の意欲・内発性・自発性を育む大切な時期に、指示と命令と禁止の言葉による「やらされてする」「やらされてできるようになる」という経験が多く、自ら没頭して遊ぶことや心動かされる体験の機会が充分にあたえられていなかったことにも原因があるのではないかなと感じています。

 

園長のことば (2017.9月)

 お盆明けに「今後の乳幼児教育・保育の方向性と課題について」というセミナーへ参加しました。会場は東千田の広島大学でした。教育・保育要領が改訂されたことと、講師が幼児教育の第一人者である東京大学大学院教育学研究科の秋田喜代美教授だったからでしょうか、参加希望者が多くお断りしなければならない方がでたということでした。保育指導においでいただいている望月先生も参加されていました。他に知り合いの幼稚園園長の顔も見かけました。

 秋田先生の書かれたものには全て目を通すようにしているのですが、知らなかったこと、反省すべきこともあり勉強になりました。ただ、学んだことをすぐに保育現場へフィードバックできるかといわれると、そのあたりにも課題があります。

 その日は他の用事もあったので急いで帰らなければと広島駅で切符を買っていたら、お隣で秋田先生が新幹線切符の時間変更をしておられました。話しかける間もなく、小走りで新幹線へ飛び乗られました。土曜日でしたから広島で一泊されて帰られるのだろうと思っていたので、驚きました。第一人者と言われる人はわずか数分の時間でも無駄にされないのだと感心いたしました。見習わなければいけません。

さて、9月の敬老参加日は、例年とは違ったものになります。保育全体の見直しを続けているなかでの変更です。

 

園長のことば (2017.10月)

 幼いころ、食べたあとの果物の種をまいた記憶のある方は、割といらっしゃるのではないでしょうか。私もブドウや桃やスイカの種をこっそり植えたのですが、生えてこず残念に思った記憶があります。園庭の斜面にあるザクロの木は、園児が投げ捨てたザクロの実から生えたものです。園児が投げたザクロの実がたまたまサツキの根っこの部分へ転がっていったため、拾われることもなく育ったのでしょう。ずいぶん大きくなりました。

 今年、給食にでたスイカの種を桃組の先生たちが撒いたのですが、なんとスイカが育ちました。何年か前から、試行錯誤しながらやっていたのだそうですが、今年はじめて育ったそうです。ただ、お店に並んでいるような立派なものではなく、小ぶりなものでした。切ってみると、ほんのりと赤色に色づいていて、食べるとポカリスエットのような味だったそうです。それでも、桃組さんは、スイカの芽が生えてきたときは大喜びでスイカの成長をながめ、水やりをし、収穫した時には、満足した表情でスイカをかわるがわる撫でていたそうです。食べている時の写真を見たのですが、それはそれは幸せそうな笑顔でした。

 今年は、ブドウもブルーベリーも育ちませんでした。ブルーベリーは順調にそだっていたのですが、実が熟す前に、子どもたちがカメさんのエサにしてしまいました。カメが食べたかどうかわかりません。イチジクはたくさん実をつけており、ちょうど食べごろです。

 

園長のことば (2017.11月)

 今朝の新聞に、「いじめ 最多の32万件 積極把握 小学校で急増」という記事がでていました。前年度比1.5倍で過去最高だそうです。急増した原因はいままで見逃されていた軽微なものまでカウントしたからだということですが、カウントの仕方が変わったにしても多いように感じられます。

 自分のことを幸せだと感じている子どもが、他の子をいじめることはないように思います。いじめの原因として、自分がとても幸せなので、あの子をいじめたというのは聞いたことがありません。満たされない気持ちや不満、ストレスが、他の子へいじわるするという形で出ているのでしょう。

 子どもたちが幸せを感じられるようになること、そして人の悲しみ苦しみがわかるようになることが教育・保育の根本にあってほしいと願っていますが、少々感じるのは、いまの学校教育の目的が、出来なかったことを出来るようにすること、良き労働力をつくることになってしまっていないだろうかということです。

 教育基本法には「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」とあります。これもなんとなくですが、人間の弱さ・苦しみ・悲しみへの視点が欠けているようにも感じられ、この条文にも違和感を覚えてしまいます。

 

園長のことば (2017.12月)

 幼少の頃は、一年が長く感じていたのに、もう師走かと思うと、年を取るほど一年が早くなるというのは本当ですね。白組さん赤組さんが、もう12月か、一年経つのがはやいなあ、なとどいっているのを聞いたことはありません。いつ頃から一年経つのが早く感じるようになったのでしょうか、思い出そうとしても思い出せません。

 薪ストーブを使い始めて7回目の冬がやってきます。今年は11月20日から薪ストーブを焚きはじめました。いろいろな方々から薪をいただきました。おかげさまで今冬も暖かく過ごせます。

 11月上旬だったと思いますが、15年前の卒園児のお祖母ちゃんから、お久しぶりですと電話を頂きました。畑にサツマイモがいっぱいできたのだけど、案外美味しいから子どもたちに食べさせてやってくださいという電話でした。さっそくサツマイモを頂きにお宅へ伺い、〇〇君どうされていますか?と尋ねたところ、いま大学2年生で高等学校(母校)の先生になるんだと頑張っているようです。相変わらず大好きな自転車で友達と一緒にあちこちを走り回っているようですということでした。

 きっと阿蘇山周辺をサイクリングしているでしょう。その情景が目に浮かぶようです。

 さて、今冬の感染症対策として、桃組さんの部屋にパナソニックの次亜塩素酸空間除菌脱臭機「ジアイーノ」を設置しました。効果があることを願っています。

 

園長のことば (2018.1月)

 毎月送られてくる保育雑誌に目を通しておりましたら、ドキッとさせられる言葉がありました。なんとなく薄らぼんやりと感じてはいたのですが、その言葉を目にしたのは初めてです。子どもを取り巻く状況として「経済的な貧困」はよく報道されていますから、それについては分かっているつもりでいましたが、「・・・経済的な貧困だけでなく、〇〇的な貧困も関わっている」と書かれている部分を目にしたとき、虚を突かれたというか、胸が苦しくなるような思いをいたしました。

 〇〇の部分へ書かれていた言葉とは、「時間」です。この場合の「時間的な貧困」とは、親が忙しくて子どもに対する気持ちに余裕がなくなっているということなのでしょうが、それだけでなく、親子で共有する時間も減っているということでしょう。

 何年か前にも書きましたが、保育教材の業者さんが、昔はこの時期「かるた」の注文が多かったけれども、さっぱり売れなくなったと言われていたことが印象深く残っています。家族一緒に過ごしていても、個々の時間を過ごしているだけで、家族団らんで一緒にたのしく過ごすといったことも減っているのでしょう。親はスマホいじり、子どもはゲーム機に夢中で会話がないといったことも割りとあるのではないでしょうか。

 また、親子一緒の時間があっても、親から子どもへの一方通行で、親に何かをさせられている、強いられている時間になっていたら、子どもにとってしあわせな時間とは言えないでしょう。子どもにとって「時間的な貧困」とは、自分の気持ちそのままを受け入れられること、自分の思いを聞いてもらえる時間が充分でないということも意味しているのだろうと感じています。

 どうぞ、お正月はわが子と過ごすことのできる大切な時間です。よいお正月を過ごされますことを心より願っています。

園長のことば (2018.2月)

 このところ寒い日が続いています。朝ふとんからでるのがおっくうになります。私が小中学生の頃、自分の部屋へ暖房器具はなかったように思います。それでもそんなに寒いと思っていませんでした。学校へ通うのもどんなに寒い日でも下着、シャツ、制服の3枚しか着ていませんでした。小学校も中学校も古い木造校舎で、中学校の教室はすきま風がすごくて、その上教室の床に穴が開いていました。授業中、国語の先生がその穴にすっぽりと落ちてしまった記憶があります。今では考えられないことですね。

 寒い時には、ブルブル震えながら・・・、暑い時には、汗を流しながら・・・ということは園舎内ではまずありません。室内は常に快適な温度に保たれています。時折、これでは体温調節機能が退化し、そのうち人間は変温動物になってしまうのではと思ったりすることもあります。体温調節機能に限らず、危険察知力や運動能力にしても安全最優先の環境がそのような能力を奪うことになるのではないかと感じることもあります。乳幼児期の子どもの成長にとってどのような環境が望ましいのでしょうか?

 さて、ひさしぶりに遠方より人形劇団においでいただきます。見たいと思われる方はどうぞおいでください。

 10年以上前、何度か上演してもらいました。最初の年、それまでテレビでしか見たことのない人形劇団を目の前で見るわけですからそれだけでワクワクしました。立体的な人形の動きやしぐさでこんなにもいろいろな感情表現ができるのかと感激いたしました。園児も食い入るように見ていました。それが2年目・3年目と続けるうち、立体だったはずの人形がだんだんと平べったくなり、関節の可動部分も少なくなり、ペープサート(紙人形劇)のようになってしまいました。紙人形がくるんくるんと表になったり裏になったりするだけで、こまやかなしぐさや動きで感情を表現するといったものではなくなりました。それはそれで充分たのしいのですが、園の先生たちがするのと変わらないように思えます。これならわざわざ費用をかけて遠方から来てもらうこともないのではと思ったことと、園舎の改築工事がはじまったこともあり人形劇団においでいただくこともなくなり、すっかり人形劇団のことは忘れていました。

 昨年、劇団より電話があり人形劇のことを思い出しました。「平べったい人形ですか」と尋ねると、「平べったくないです」ということでしたので、上演依頼しました。でも記憶をたどってみると、この演目は平べったい人形だったような気もするのですが・・・・平べったくないことを願っています。

園長のことば (2018.3月)

 公園から、ブランコ、シーソー、回転ジャングルジム等の「動く遊具」を見なくなって久しいように思います。本園にも現在、ブランコ・シーソー・回転ジャングルジムはありません。その理由は、事故の危険性があるからです。事故がないということを最優先しますと、「動く遊具」は事故の可能性がありますから、撤去すべきだということになります。

 その際、「動く遊具」での遊びを通して子どもは何を体験し、そのことによって何が育っていたのかを丁寧に検討されていればよいのですが多くの場合、危険だから安全のために撤去しなければならないということしか考えられていなかったように思います。

 なぜ、このようなことを書くのかといいますと、療育のなかに感覚統合療法というものがあり、そこで行われていることを見ると、子どもの育ちにとってブランコやシーソーといった「動く遊具」での遊びにも意味があるのだということがわかるからです。

 数年前、大型トランポリンを導入したのも、「動く遊具」を撤去したので、その代わりになるものをという思いもあったのですが、西の園庭へ設置したため、充分に遊べているとは言えませんでした。トランポリンと同じく鉄棒も西の園庭にあるので、園児が自由に鉄棒で遊ぶことができませんでした。それが今年度、県から補助金を頂けることになったので、こちらの園庭へステンレス製鉄棒を発注し、この24日にようやく納品されました。

 一昨年でしたか東京大学から園庭に関するアンケート調査があり、その結果がリーフレットとなっておくられてきました。とても参考になります。少しずつではありますが、子どもの経験をより豊かにすることのできる園庭へ改善を図りたいと思っております。